ロックと映画

「ロックンロールが最高だ、映画も演劇もくそくらえ」といったのはカステルブランの追っかけをしていて自らもホーリーモーダルラウンダーズでドラムを叩いていたサムシェパードの発言だが、映画かロックかどちらがかっこいいのだろうかという問いが全く以て大切なのだと言い張る世代の映画が、1,970年代以降スクリーンに登場しだした。そしてロックを聞く耳を持った映画監督の作品は、結果的に1970年から1,980年代において映画の最前線を引っ張ってきた。ウッドストックのドキュメンタリーの編集を手がけ、ザ・バンドの解散コンサートも取ったマーチンスコセッシはやはりそんな耳を持つ監督である。

最新作のage of innocentに至るまで彼の映画にはいつもどこかロック的としか言いようのない無謀さと陰りがある。特にオムニバス映画ニューヨークストーリーのニック・ノルティー出演の一編と、ロック40年の歴史とマフィアのそれを重ねたグッドフェローズはそのテイストが色濃く出た傑作だ。

ベルベットアンダーグランドの歌詞の一節「私の人生はロックンロールによって救われた」と同じセリフを口にしていたバンベンダーズになると、ロックと映画は自分の中で分け難く存在してしまっている。まだ評論家をしていた頃の彼の原稿では、ヒッチコックとキンクスがジョンフォードとローリングストーンズが全く同じで捨て論じられていた。彼の70年代を代表するロードムービーの三部作である「都会のアリス」、「回り道」、「さすらい」はロックと映画とそしてアメリカと自身の距離を見つめた作品だった。
そこでは台詞ではなくロックが断片化の何かを語り表していた。今や世界の巨匠となって、好きなミュージシャンに曲を提供してもらえる立場となったが、そこにはロックとの距離が失われてしまった。そのことに気づいているヴェンダースは今はもうロックが自分の映画にとってそれほど大切ではなくなったと発言もしている。

ベンダーズの手法に何らかの形で影響受けて現れた、いわゆるインディーズ系の映画作家たちジムジャームッシュやアキカウリスマキ、アレックスコックス、ハルハートリーらはミュージシャンを出演者に起用したり、曲の選択にかなりマニアックな嗜好を見せたり、あるいは自身で演奏行ってきたりした。

現象的に見れば、ロックと音楽の間の蜜月時代とはまさにこの80年代のことだったと言える。しかし90年代に入ってから先のベンダーズの発言にも現れているが、ベンダーズ的なロックと映画との関係は変化せざるえなくなる。それは多くのインディーズ出身の作家たちが映画の内部で物語を語り始めたことと、ロックがリミックスやサンプリングの対象として意味ヤ心象とは無関係な響きにおいて利用され、聞かれるようになったことが大きいのではないか。

ハリウッドメジャー映画においてオルタナティブロックやラップなどが使われることが珍しくなくなった現在、可能性としては例えばビデオとCDの世代の申し子のようなクエンティンタランティーノやティムバートンといったオタク的な感性を持った映画作家たちが、過去の映画や音楽を様々に利用して組み合わせる中からロックと映画との新しい関係も生まれ出てくるのかもしれない。

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