ブライアン・イーノ

かつて「非音楽家のための音楽」と言う論文を執筆していたというイーノは所謂ミュージシャンの枠に収まらぬ、多面的な活動で名高い。その奇跡を大雑把に分ければ①プログレッシブ・ロックとしてのソロアルバム、②ロックスターとのコラボレーション(デビットボーイ、デビッドバン、ロキシー関係者)、③オブスキュアやアンビエントなどの環境音楽(ギャヴィンブライアーズ、ハロルドバッド、ジョンハッセル)、④新進グループのプロデュース(ウルトラボックス、デヴォ、U2)、さらにビデオインストールインスタレーションやサントラ等々。

かつてロバートフリップはこういういいののことを「触媒作用を持つ生物」と称した。確かにアンビエントやエスノロックなど、かつて彼が提唱したコンセプトには、その後のポピュラー音楽シーンを予言するような先見性があったし、イーノのもとに集うアーティストたちは互いに刺激以来、それまで無かった新たな創造性を発揮するようになった。ところが肝心の本人が作る音楽はどうも80年代後半以降、めっきり精彩を欠いてしまった。ダニエルラノアやマイケルブルックといった後輩の活躍ぶりを見るだに、尚更残念な話ではないか。21世紀のロックシーンの活性化のためにも、イーノにはまだまだ活躍してもらいたかったのだが。

デヴィット・バーン

デヴィット・バーンがぶち上げたブラジル・プロジェクトのレイ・モモの日本公演に参加した某著名メンバーが僕に「実はデビットのことよく知らないんだよ」と告白した。この言葉はバーンのキャリアとNO.NEW YORKの一般のバンド、ambitious loversのアートリンゼイが手がけた仕事と比較すると俄然、興味深いものとなる。

ニューヨークでは同じ地平に立ち、ともにブラジルで憧憬を寄せる2人であるが、デヴィット・バーンのアプローチがバイーア地方とアフリカをつなぐ糸を紡ごうとしたドキュメンタリーフィルムの政策など、文化人類学的な手法などに対し、ブラジル育ちのリンゼイはブラジル的ファクターがプリセットされた、無自覚ぶりを見せる。

デヴィット・バーンはブラジルのレーベルを設立するほどの入れ込みを見せるが厳密さを真摯に追求した結果、博物誌的操作すら呈している一方でリンゼイはブラジルローカルのシンガーメイスのプロデュース作では例の痙攣ギターをさりげなく忍ばせるほどの奔放三昧。さらにMTVのトップシンガー・ガルコスタの作品を手がけるまでにブラジルでの評価が高まった。ぼくはこのジレンマにデヴィット・バーンが苦悩し、ジェラシーすら覚えたのではと想像する。だからこそ僕は自らの名を冠した最新作での方の荷がおりたデヴィット・バーンのリラックスしたように安心するのだ。

ピーターガブリエル

文学演劇を偏愛し、歴史や伝統重んじるくせに、決して手放して褒めることなくアイロニーで返す、こうした英国基礎を最も感じさせたグループが神話や妖精話に着想を得た歌詞と劇的なサウンドで名高いガブリエル在籍のジェネシスだった。

地味なギグをもり立てようと猥談まじりのトークやメイク、被り物を駆使したパフォーマンスをピーターガブリエルは展開し、バンドのライブアクトが一躍評判となるが、75年には同グループを脱退、77年よりソロ活動を開始する。キャリアの分岐点となったのがリズムが強調され民族音楽の要素を取り入れた80年代のスリーで以降ワールドミュージックの祭典WOMADやReal worldレーベルを興すなど、活動家としての側面が目立つ86年のそうでは従来のガブリエル節にソウル感覚を加えた新展開が成功して世界的な大ヒットを記録。同アルバムのビデオクリップも高い評価を得る。90年春夏初の単独日本公演では成熟したステージを披露したが、意外なことにかつての.でした緊張感は希薄だった。その後CD-ROMソフトのリリースやテーマパークの設計、U2の向こうはった大規模なステージセットなどマルチクリエイターとして一躍脚光浴びていただけに、肝心の音楽のテンションが今後もできるのか、ピーターの正念場は案外これからなのかもしれない。

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